シリーズ「極限に挑む」 第1回「水素を見る」

身のまわりのあらゆるところに存在する「水素」。水素を「見る」手段の飛躍的な進歩によって、物質中の水素のさまざまな役割が解き明かされつつあります。

水素はどこだ?

クロニクル

水素はあらゆるところに存在します。太陽の85%(原子数比)は水素ですし、人体や海水の約60%(原子数比)は水素でできています。もちろん、身のまわりの物質にも多くの水素が含まれています。ところが近代まで、物質の中で水素がどこにあり、どのような役割をしているのか、はっきりわかっていませんでした。「見る」手段がなかったからです。

1910年代に入って、まずX線で結晶構造を調べる実験が始まりました。その約20年後、原子核を構成する粒子である中性子が発見され、中性子を使って原子の構造を調べようとする実験が1940年代から始まりました。その後、X線と中性子という二つの「見る手段」はともに開発が進められていきましたが、長い間、「X線では水素が見えない」、「水素は中性子でないと見えない」と言われてきました。その理由は、見る仕組みの違いにありました。

X線を結晶に照射すると、結晶中の各原子によってX線が散乱されます。X線は波の性質をもつので、たがいに干渉しあい、特定の方向に回折されます。この回折パターンは原子の配置を反映したものなので、それを基に原子の配置を特定できます。このときのX線の散乱は、実は原子核を回っている電子で起こります。そのため、電子の数が多い原子ほど、X線が散乱されやすくなり観測が容易になります。つまり、電子の数が多い原子ほど見えやすいのです。水素原子の電子はたった1個なので、電子を6個もっている炭素原子と比べると、X線での見えやすさは40分の1以下になってしまいます。

中性子で水素を見る仕組み

一方、中性子も波の性質をもつので、その回折を測定することで、原子の配置を決めることができます。中性子は電荷をもたないので、電子と相互作用をせず、電子の運動によってできる電子雲をすり抜けていき、原子核で散乱されます。ですから、見えやすさは原子のもつ電子の数に左右されず、水素も他の元素と同じように観察することができます。しかし、中性子を「見る」手段として活用していくには、原子核から大量の中性子を取り出す必要があります。そのため、中性子を使った実験では原子炉や加速器など、中性子を1秒間に数百万個もつくるための大規模な施設と、試料に集中的に照射する高度な技術が必要となります。

「水素を見る」最先端実験装置NOVA

中性子を使った物質科学研究は、日本では1960年代に入ってから日本原子力研究所東海研究所(現在の日本原子力研究開発機構原子力科学研究所)の原子炉(JRR-2)で始まりました。また、1970年代後半には東北大学で電子加速器を使った中性子回折実験が始まりました。その技術が高エネルギー物理学研究所(現在の高エネルギー加速器研究機構)で進歩し、さらに2008年に完成した大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)へと引き継がれました。

中性子で見る実験装置NOVA

MLFには中性子を用いて原子の配列(構造)を見る装置が数多くありますが、その一つが高強度中性子全散乱装置(NOVA)です。NOVAは物質中の水素の観察を強く意識した設計が行われており、世界最短の時間で、かつ少量しか合成できないような最先端の材料を高感度で評価ができる最先端の実験装置です。また、通常の回折実験の装置では規則的に原子が配列した結晶構造しか評価することができませんが、NOVAでは液体のように乱れた構造を評価する全散乱法と呼ばれる実験も可能です。そして、試料の温度や圧力を変えながら物性の起源となる原子の構造を明らかにしていきます。

一方、物性や機能には原子の配置だけでなく電子の状態も大きく関わってきます。ところが、中性子では電子が見えませんから、X線を使って電子の状態を調べる必要があります。また、X線には特定の元素の電子状態を観測したり、数百ナノメートルのビームで観測するなど、中性子にはない特徴があります。
「中性子は最初のステップです。まず原子の構造を知り、X線ビームを相補的に使っていくのが望ましいですね」
NOVAの開発・実験を進めてきた大友季哉教授は、X線ビームとの連携を強調します。

試料を水素ガス中に保持して中性子回折実験を行うための装置
NOVAの中性子検出器(部分)。試料で散乱された中性子を全方向でとらえられるように、数多くの検出器が立体的に配置されている。

中性子が広げた物質世界

水素社会の実現に向けて、水素貯蔵材料の性能向上が強く求められています。そのための基礎研究として、大友教授は、金属水素化物の構造や、水素の貯蔵・放出のメカニズムを解明するための中性子実験を行っています。

また、中性子は水素を見るだけでなく、リチウムなどの軽元素を観測することにも優れています。元素戦略プロジェクトの研究では、リチウム電池の高性能化と代替材料の開発を目的とした解析が行われています。この研究では最近、充放電時のリチウムの位置の変化を見るだけでなく、リチウムの動きを観察できるようになりました。

「この実験には大量の中性子が必要で、これはJ-PARCならではの成果です」と大友教授は胸をはります。

J-PARCで中性子研究を進める大友季哉教授(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 中性子科学研究系主幹)

中性子にはもう一つ大きな特性があります。スピンをもち、磁石として振る舞うので、物質中の磁気構造を知ることができるのです。つまり、水素と磁性を同時に見られるわけで、この特性を生かして、水素が磁性に及ぼす影響が調べられています。また、ネオジム磁石に代わる磁性材料の探索や、超伝導体の研究にも役立っています。

生命科学の分野でも中性子が活用されています。生命体は水素に満ちあふれていて、特に機能発現に関わるアミノ酸やタンパク質の水素の位置は研究者が最も重要視する情報の一つです。X線を用いた結晶構造解析では、炭素や酸素、窒素でできた骨格を決め、中性子ではX線で見えにくい水素の位置を特定する、といった分業がここでも行われています。

さらに、中性子はX線写真のように透過させて物質内部の画像を撮ることもできます。X線はプラスチックなど軽元素でできたものは透過しやすいですが、鉄のように重い元素でできたものは透過しにくくなります。そこで、構造物や自動車エンジン内部など、X線が透過しにくい重くて大きな機器の欠陥を見つけるための非破壊検査にも中性子が利用されています。こうした応用は今後、産業界や社会へ広がっていくと期待されています。今でも、MLFにおける実験の30%は産業利用で占められています。

MLFの実験ホール

さらなる挑戦

「計算科学の進歩によって、金属水素化物の中で水素が入る位置は予測できるようになってきました。しかし、例えば圧力をかけて金属原子間の距離を縮めていくと、水素が入る位置が変わっていくのですが、これを予測することはまだ難しいです。金属と水素の間の相互作用や結合については十分わかっていないので、中性子を用いた直接観察がまだまだ必要です」
「物質の中での水素の位置を正確に決めるには、地道に実験を積み重ねていく必要があります」

大友教授は中性子研究の現状をこう語ってくれました。
「今後に向けて、中性子回折実験における目下の目標は、空間・時間分解能の向上です。そのためには、より多くの中性子をつくり、試料に集中させる技術の開発が必要です」
研究者個人としては、もっと先を見て挑戦しようとしています。
「軽水素と重水素の違いを区別して観察できるようにしたいです。X線ビームの観測技術も進歩し、いまやX線でも水素を観察できるようになってきました。中性子で水素を見るというのはどういうことなのか、観測技術を極めていきたいのです」

大友教授といっしょに研究する若手研究者にも目標を聞いてみました。
池田一貴准教授は、
「例えば、中性子の強度がJ-PARCよりもさらに桁違いに上昇して、燃料電池の中で化学反応によって水素エネルギーが生まれる瞬間をスナップショット的に見られるようになったら面白いと思います」と、水素社会が必要とする、水素エネルギー生成のための基礎研究をめざしています。

中性子研究の若手スタッフ、池田一貴准教授(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 中性子科学研究系)

本田孝志助教は、
「超高圧下の実験が可能になると面白いですね。硫化水素は超高圧下限定ですが、200Kというかなり高い温度で超伝導状態となります。このような高い超伝導温度は水素と超伝導とが影響し合うことによって生じていると考えられていて、水素の配置が重要な鍵を握っているといえます。また、超伝導に限らず水素がもたらす超高圧下で物性の変化を引き起こすことが数多くあるので、中性子の超高圧下実験は必要不可欠な時代になってきたと思います」と語ってくれました。

「水素を見る」挑戦はこれからますます盛んになっていくようです。

中性子研究の若手スタッフ、本田孝志助教(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 中性子科学研究系)

イラスト:白井匠
撮影:石川典人