シリーズ「極限に挑む」 第1回「水素を見る」

水素はあらゆるところに存在します。太陽の95%は水素ですし、人体や海水の10%は水素でできています。もちろん、身のまわりの物質にも多くの水素が含まれています。ところが近年まで、物質の中で水素がどこにあり、どのような役割をしているのか、はっきりわかっていませんでした。「見る」手段がなかったからです。

水素はどこだ?

クロニクル

1910年代に入って、まずX線で結晶構造を調べる実験が始まりました。その約20年後、物質を構成する素粒子である中性子が発見されると、中性子を使って原子の構造を調べようとする実験が1940年代から始まりました。その後、X線と中性子の2つの手段はともに開発が進められていきましたが、長い間、X線では「水素が見えない」、「水素は中性子でないと見えない」と言われてきました。その理由は、見る仕組みの違いにありました。

X線を結晶に照射すると、結晶中の各原子によってX線が散乱されます。X線は波の性質を持つので、たがいに干渉しあい、特定の方向に回折されるので、これを測定して原子の配置を見分けます。X線の散乱は、実は原子を構成する電子で起こり、電子が多い原子ほど感度が高くなる。見えやすくなるのです。つまり、原子核を回っている電子の数の二乗に比例して、観測が容易になります。水素原子の電子はたった1個なので、電子を6個もっている炭素原子と比べると、水素原子の散乱面積は100分の1以下になってしまうのです。

中性子で水素を見るしくみ

一方、中性子は電荷をもたないので、電子と相互作用をしません。電子の運動によってできる電子雲をすり抜けていき、原子核で散乱されます。中性子も波の性質を持つので、その回折を測定することで、水素の原子核の位置を決めることができるのです。しかし、中性子を「見る」手段として活用していくには、原子炉や加速器を使って中性子を1秒間に数百万個のオーダーでつくり、絞りこんだビームを試料に照射する高度な技術が必要でした。

量子ビームの時代

中性子を使った物質科学研究は、日本では日本原子力研究所東海研究所(現在の日本原子力研究開発機構原子力科学研究所)の原子炉(JRR-2)で始まりました。また、1970年代後半、電子加速器を使った中性子回折実験が東北大学で始まりました。その技術が高エネルギー物理学研究所(現在の高エネルギー加速器機構)で進歩し、さらに2008年に完成した大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF) へと引き継がれました。

中性子を見る実験装置NOVA

J-PARCでは現在、世界最高強度の陽子ビームをつくり、物質、生命、宇宙の研究が行われています。MLF では、加速器から送られてくる陽子ビームを使って、中性子とミュオンという二次粒子を発生させ、それらを使った多彩な実験が進められています。

NOVAの中性子検出器(部分)試料で散乱された中性子を全方向でとらえられるように、数多くの検出器が立体的に配置されている。

MLFでつくられた中性子は、観測目的に応じた各種の実験装置に導かれます。原子の配列(構造)を見る装置の一つとして、高強度中性子全散乱装置(NOVA)があります。NOVAは世界最短の時間(高強度)で、かつ少量の試料で高感度の実験ができる最先端の実験装置です。試料に照射された中性子は原子核で散乱されます。回折される方向は原子の配置によって決まってきます。そこで、どの方向に回折されたのかを検出し、原子の位置を決定します。そして、試料の温度や圧力を変えながら物性の起源となる原子の構造を明らかにしていきます。

ところが、物性や機能には電子の状態が大きく関わってきます。中性子では電子が見えませんから、X線を使って電子の状態を調べる必要があります。また、X線には特定の元素の電子状態を観測したり、数百ナノメートルのビームで観測するなど、中性子にはない特徴があります。さらに、MLFではミュオンの実験が行われています。ミュオンは水素の同位体として試料に撃ち込むことができ、崩壊する際に放出される陽電子を調べることで、物質中の水素の状態を知ることができます。

「中性子は最初のステップです。まず構造を知り、それぞれの量子ビームを相補的に使っていくのが望ましいですね」
NOVAの開発・実験を進めてきた大友季哉教授はこう語ってくれました。

J-PARCで中性子研究を進める大友教授(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 中性子科学研究系主幹)

中性子が広げた物質世界

大友教授が進める研究の1つに水素貯蔵材料があります。水素社会の実現に向けて、水素貯蔵材料の性能向上が強く求められています。そのための基礎研究として、金属水素化物の構造や、水素の貯蔵・放出のメカニズムを解明するために中性子実験を行っています。

中性子は水素だけでなく、リチウムなどの軽元素を観測することにも優れています。元素戦略プロジェクトの研究では、リチウム電池の高性能化と代替材料の開発を目的とした解析が行われています。この研究では最近、充放電時のリチウムの位置の変化を観測するのみならず、リチウムの動きを観察できるようになりました。 「この実験には大量の中性子が必要で、J-PARCならでは成果です」と大友教授。
中性子にはもう1つ大きな特性があります。スピンをもち、磁石として振る舞うので、物質中の磁気構造を知ることができるのです。つまり、水素と磁性を同時に見られるわけで、この研究から、水素が磁性に及ぼす影響が調べられています。さらに、ネオジム磁石に代わる磁性材料の探索や、超伝導体の研究にも役立っています。

中性子は生命科学の分野でも活用されています。生命体は水素に満ちあふれていますから、特定の機能に関わる水素だけを抜き出すのが課題ですが、アミノ酸やタンパク質の結晶構造の解析では多くの成果をあげています。

MLFの実験ホール

さらなる挑戦

中性子は、X線写真のように透過させて物質内部のイメージングを撮ることもできます。そこで、構造物や自動車エンジン内部などの機器の欠陥を見つけるための非破壊検査に利用しています。こうした応用は今後、産業界、社会へと広がっていくものと期待されています。MLFにおける産業利用は今でも30%を占めています。

中性子回折実験における目下の目標は、空間・時間分解能の向上です。

大友教授はもっと先を見て挑戦しようとしています。
「軽水素と重水素の違いを区別して観察できるようにしたいです。他の量子ビーム観測が進歩していて、いまやX線でも水素を観察できるようになってきました。中性子で水素を見るというのはどういうことなのか、観測技術を極めていきたいのです」

大友教授といっしょに研究する若手研究者の池田一貴准教授は、
「たとえば、中性子の強度がJ-PARCよりもさらに桁違いに上昇して、燃料電池の中で化学反応によって水素エネルギーが生まれる瞬間をダイナミカルに見られるようになったらおもしろいと思います」と、水素社会を視野に入れた水素エネルギー生成のための基礎研究をめざしています。

池田一貴准教授(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 中性子科学研究系授)

同僚の本田孝志助教は、
「超高圧下の実験が可能になると面白いですね。200Kの超伝導を出した硫化水素は超高圧下での構造となっており、水素と超伝導とのカップリングという意味でも水素の配置が重要です。水素がもたらす物性の中には超高圧下で起こることもあるので、中性子の超高圧下実験は必要不可欠な時代になってきたと思います」と語ってくれました。
ちなみに、X線では150万気圧といった超高圧下の実験を実現しています。

「水素を見る」挑戦は始まったばかりなのかもしれません。

本田孝志助教(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 中性子科学研究系)